2022年1月20日 木曜日

「マスター、あの頃40代だったんだね。よくあんな遊べたね」
「40代なんてまだまだ元気だから」
「私は20代だったからあれだけど、よく付き合ってたね」
「うん、50過ぎたらもうだめだよ」

初めて行く喫茶店で、カウンターに座った女性とマスターがずっと話していた。マスターはいまは63だという。20年くらいの付き合いがあるらしい。そしてかつては遮二無二遊んでいたようだ。

入店するときにちらっと目に入っただけだが、女性はアイコスを吸っていて美しい人だった。いまでもそうなのだから、若い頃はさぞかしきれいだったのだろう。マスターも煙草を吸いながら、カウンターの端に置いてあるデスクトップPCをずっといじっている。

「今日あの人も来ると思うよ。おばさん。韓国映画好きの」
「ああそうなんだ」
「最近あの人木曜に変わったんだ」
「いい人そうだよね」
「いい人そうな顔をしてる」

常連客が何人かいるらしく、ほかの人の話をしていた。聞きながらなんとなく、やっぱりお店をやるっていいなあと思う。営業してるだけで人が集まってくるんだもんな。歳を取るにつれて人と自動的に出会うような機会が乏しくなっているから、憧れる。お店には三人しかおらず、女性はやがて店を後にして、マスターと自分だけが取り残される。さっきまで二人がずっと喋っていたので、急に店が静かになったように感じる。

もしかすると話しかけられたりするのかな、と思いながらKindleで暇つぶしに『ノルウェイの森』を読むが、特に話しかけられない。喫茶店やバーで店の人やまわりの客と、少しくらいなら話しても良いときとそうでないときがあるが、どちらであってもおおむね話しかけられない。今日は前者なのだが。コミュニケーションを拒絶するような雰囲気が出ているのだろう。

何か読んでいる人に話しかけることはなかなかしないと思うが、熱心に読んでいたわけでもなく、煙草を吸いながらぼんやりする時間を設けてみたりしたが、特に声はかからない。窓際の少し離れたテーブル席に座ったのが悪かったか。しかし五人がけくらいのカウンター(二人分くらいはマスターのデスクトップPCで埋まっていて、もう片方の端には女性が座っていた)の間に割って入るのもおかしな話である。

喋りたいなら「明日から早仕舞いですか」とか「今日は風が強いですね」とか、こちらから話しかけるべきなのかもしれないが、唐突に話しかけようとするとどことなく緊張が声に出てしまうものだ。それが恥ずかしくて声が出ない。そのうちアイスカフェオレを飲み終わってしまったので会計した。結局韓国映画好きのおばさんは来なかった。


そもそもアルバイトのあと街に出てきたのは、明日から大抵の店が夜閉まるからで、せっかくなのでもう一軒どこかに行くことにした。昔行って良かった国分寺のバーに行くか、と電車に乗る。あそこはカウンターだけで、マスターもお客さんもわりと和気藹々として良い感じだった。

車中で、店構えがよくて気になっていたダイニングバーがあるのを思い出して、そちらを覗いてみることにする。空いている。カウンターもあるし一人でも大丈夫そうなので入ると、レディー・ガガの『Born This Way』がかかっていて、あっこれ絶対違うと思ったがもう二、三歩踏み入れていたので諦めて席につく。

カウンターの一番端に座り、ジン・トニックを頼む。それが出てくる頃にはなぜかサラ・ブライトマンの『Time to Say Goodbye』が流れていて、ガガからこれってどういうチョイスなんだと思う。そして数席離れたところにいるサラリーマン二人組の片方が「俺こういうの好きなんだよ。こういうクラシック」と言っていて、これはクラシックではないだろと内心毒づく。バーテンダーが「ほかにはどんなのが好きなんですか?」と尋ねると「葉加瀬太郎!」と言っていた。

それでげんなりしていたところに、お通しとしてトマトとチーズのカナッペが出てきた。別に店が悪いわけではないが、トマトが苦手なのでさらに気分が落ちる。俺は何をしているんだろう? これなら最初考えていたバーに行った方が良かったな。店構えが好みでも入るとだめなこともあるんだな。

そこで会社勤めの友人から「遊ぼうぜ!」とLINEが来た。明日は有休を取ったのだという。「国分寺で一人で飲んでる」と返す。なんやかんやあって、ほんやら洞に行くことになった。ジン・トニック(これはおいしかった)をさっと飲み干して店を後にする。お会計をお願いしたら「2,000円以上じゃないとカードだめなんですよ」と言われて本当に厭な気持ちになってしまう。個人店っぽいし手数料かかるし、気持ちはわかるけど規約違反だろう。そんなこと言われるなら最初から現金払いだけのほうが許せる。


友人はほんやら洞に行ったことがないが、俺が候補に挙げたら調べて、カレーが美味しそうだと惹かれたらしい。ほんやら洞のカレーは実際美味しいし有名である。

合流して店に入ると「いまオーナーがいないので料理が出せない」と言われマジか、となる。俺は既にご飯を食べていたが、友人は仕事を終えた後なので腹ぺこ。友人に「どうする?」などと聞いていたら店員さんはオーナーに電話してくれて、20分くらいで戻るらしい。というわけで結局友人はカレーとラッシーのセットを頼めた。

趣味に合わない店に入り、そこでお金を使ったために落ち込んでいた気分が、ラッシーを飲みながら話しているとだんだん恢復してきた。ほんやら洞はやはり素晴らしい。人と結局話せたからかもしれない。


帰り道は本当に寒かったがその代わり星がよく見えた。よく晴れているから寒いのだろう。駅前のコンビニがなぜか閉まっていたので家を通り過ぎて別のコンビニに向かうと、その方角にオリオン座が大きく浮かんでいた。

冬の夜の星君なりき一つをば云ふにはあらずことごとく皆 [与謝野晶子]