2022年1月24日 月曜日 風が強い

以前住んでいた家の近くに、鉄道総研という研究所があった。新幹線が開発された場所である。そこは年に一度だけ公開イベントがあり、子どもの頃よく訪れていた。作業服に身を包んだ男たちが、誇らしげに自分たちの技術がいかに鉄道の安全や速達性や使い勝手の向上に結びつくのかを説明していた。子どもの頭でわかるものもわからないものもあった。

円形の磁石の上に乗せてもらったこともある。直径一メートルくらいだったと思う。磁石は土台から数ミリ程度浮いていて、液体窒素だかの白い煙がもわもわとしていた。職員は磁石と土台の間に竹の定規を差し込んで、磁石が浮いていることを見せながら「これがリニアモーターカーが浮いている仕組みなんですよ」と言った。ロマンがあるな、と思った。


今でもそれがなんだか羨ましい。かつて、ある業務改善ツールのウェブサイトにあるバナーの位置やデザインを変えると、どれくらい資料請求が増えるか試すという業務に従事していた。宣伝する文章の上部に置くか、文章の途中に置くか、最後に置くか、あるいは文章の左右で追従させるか、訴求文言は、大きさは、色使いは……。

それがつまらなくて仕方ないというわけではない。まったく面白さがないわけではない。たとえば何かの要素を変えて資料請求が増えたとき、なぜそうなったか考えるのはそれなりに面白い。でもだから何だというのだろう? 俺がいくら顧客が資料請求に至るプロセスを最適化したところで、だから何だというのだろう? 唯一の救いは、そのツールは実際に社内で使われていて、自分でも有用なものだと思えていたことかもしれない。まあ悪くはない。これを使ったらきっと仕事がしやすいだろう。それを導入した会社でもA/Bテストが効率的に進むに違いない。

それに比べて東京から大阪まで二時間と少しで行けることや鉄道事故による不慮の死を少しでも減らすことの素晴らしさと言ったら。その素晴らしさがそれに従事していた人々の自負となっていたものだろう。手放しで賞賛するものでもないという向きもあるだろうが、業務改善ツールのコンバージョン率を上げることなど手放しどころかほとんどどこにも賞賛する要素がない。

驚くべきことに、とても賢い人々がこぞって、かつて俺がやっていたような業務に従事していて、前世紀に夢見ていただろう21世紀とは程遠く、逆に危惧されていただろうディストピアの到来ばかりが近づいているように思われるが、それはそれとして不思議な気持ちになる。そんなことを延々とやっていて消耗しないのだろうか。

「そんなこと」で経済が成り立っていて多くの人が食べているのだから仕方ないのかもしれないが、賢い人々がこぞってエネルギー開発やロボットの研究などに従事していれば、今頃誰もバナーの位置を調整するような仕事に従事しなくて済み、日がな絵でも描いてのんびりと過ごしていたに違いなく、暇つぶしに働くにしても暮らしのために選ぶ必要はないのだからもう少しまともな(意義のある)職につけたはずなので、やはりその経済を成り立たせようという意志がおかしいのではないかと思う。


別に世のため人のために働けとは思わないが、どうせ働くなら世のため人のためと思える方が働く身としてもマシに違いなく、というか給料が支払われているのだから一応何かのためにはなっていて誰かが金を払っているのだろうが、だからといってそれが社会のためになっているというわけではなく、むしろそれを頑張れば頑張るほど社会がどうしようもなくなっていくという種類の労働が多く存在し、ホワイトカラーなんてほとんどそうなのではないかという懸念もあり、何が言いたいかというとそんなどうしようもない労働のために誰もこれ以上消耗しないでほしいし、また自分も消耗したくない、というだけだった。