2022年2月9日 水曜日 良い天気

今日もたくさん寝てしまった。11時手前くらいに起きた。アルバイトは14時からなので、徒歩20分くらいで行ける喫茶店へ。

積ん読していた九鬼周造『「いき」の構造』を読む。「一 序説」「二 『いき』の内包的構造」まで読み終ったところで店を出る。九鬼の文章がそもそも明快だが、講談社学術文庫版だと註が多くてさらに読みやすい。親切なつくりだなと思う。内容をメモしておこうかなと思ったが、各章に付された藤田正勝による解説が適切な梗概なので、車輪の再発明はしないでおく。その代わり好きな箇所を引いておく。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。(p.11)

もとより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない。(p.23)

媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。(p.39)

永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」と云っているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎された「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。(pp.39–40)

それ故に、「いき」は媚態の「粋」である。「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自立的遊戯をしている。(p.48)

「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。(中略)スタンダアルのいわゆるamour-passionの陶酔はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒する者はamour-goutの淡い空気のうちで蕨を摘んで生きる解脱に達していなければならぬ。(pp.48–49)

この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と云うことができないであろうか。(p.51)

何が何やらという感じだろうが、文章の格調を味わっていただければそれでよい。


そののちアルバイトをした。途中で割り振られた仕事が全部終わってしまい、仕事を求めたらアルバイト先がつくろうとしている新しいサービスに関係してマッチングアプリや婚活サービスのウェブページをひたすら調査し、整理するという業務を命ぜられた。面白かったがはなはだ疲れた。

マッチングアプリについて考えるといつも暗い気持ちになる。恋愛すら定量的に扱われ、効率性や合理性の世界に回収されているのが恐ろしくて。もちろんそれは出会いの段階にとどまっていて、恋愛そのものが効率や合理によって進展していくわけではないが、我々は出会える人としか恋愛できないのだし、またいずれやり取りなどから「そろそろデートに誘うタイミングです」などとサジェストされてもおかしくない。詳しくないが既にそういう機能はあるのかもしれない。Gmailがファイルの添付し忘れを指摘してくれるように。それはある意味救済かもしれないが、そうであれば我々は何のために意志しているのだろうか。

もとより人間はすべて、知らぬ間に生まれ落ち、何かしらの及びもつかない力によって幸福になったり、あるいは苦境に陥ったりして、そしてまた知らぬ間に死んで消滅するだけの存在であり、恋愛もその存在が営む行為のひとつでしかないのだから、及びもつかない力が恋愛において制御されうることは幸福なのかもしれない。救済というのはそういう意味だが、及びもつかない力に人智が及んだとき、個人が考えることはすべて意味をなさなくなる。なぜならそこには正解が存在するのだから。まるでGoogle マップで最短経路を調べるように迷いなく恋愛をすることができるだろう。そのときわざわざ自分ではない別の人格と交流することにどのような価値があるのだろうか。そのように考えるとマッチングアプリの隆盛は、恋愛の、あるいはすべての人間関係の、終わりの始まりなのかもしれない。

一方で、Google マップの指示に従わずに遠回りをする自由があるように、あるいはGoogle マップで経路を検索しない自由があるように、そのような合理性から離れた恋愛もまた可能だろう。しかし恋愛はすべての時代において限りない煩悶の原因であり、それを選べば幸福になると判っているとき、どれほどの人間がそれを選ばないでいられるのだろうか。