2022年2月13日 日曜日

夜、気詰まりになっているという知り合いから電話がかかってきて、そのままおそらく午前三時過ぎに寝入ってしまった。しばらく目を閉じたまま、電話をスピーカーにして話していたので、確かなことは判らない。

結局昼の三時過ぎまで惰眠を貪っていて、長く寝過ぎた日にありがちだがいまは頭痛がしている。冷たい雨が延々と降り続けている。どうしようもない。

というわけでただ横になって図書館で借りてきたミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』を読んだ。ウエルベックは、Twitterで飽きることなくペダンチックなツイートをしている亜インテリであれば必ず読んでいる作家で、俺は『素粒子』と『服従』しか読んだことがないが、とくに前者は傑作だったので、逆にほかの作品を読まずにいたのだが——自分にとって外れないだろうと判っている作家は(少ないので)、長く楽しめるようゆっくりと読み進めたいという気持ちになる——、図書館の本は書き込みができないので、借りるなら小説が良いという考えもあって、『闘争領域の拡大』『プラットフォーム』『ある島の可能性』を借りてきた。

彼の作品は非常に評価が分かれる。仮にも物書きが評価の分かれない文章——なんら読者の思考や感情を惹起しない、平坦で意味のない文章——を書く方がどうかと感じるし、彼は書かれなければならないことを書いている。彼が書いていることを受け付けないという人がいるのも判るが、それは特段露悪的に物事を描いているのではなくて、実際に社会がそうであるという醜さに対してただ率直なだけだと思う。そしてその醜さに気づき、それを書けるのは、そうでないあり方を求める精神があるからだと考えれば、むしろ理想主義的な人間なのだろうなと推測している。

読みながら、どうしてウエルベックは「あの層」(そこには自分も多少含まれている)に受けるのだろうと考えていた。現代文や社会科を得意とし、それなりの私大の文系学部にたどり着き、Twitterではきつい口調で露悪的なことをツイートするわりに、実際にはかなりナイーブな精神性を持つあの層。そこには性別はあまり関係ないが、ウエルベックが好きという女性は(いくらでもいるのだろうが)今まで見たことがなく、また俺は男なので、あの層の男の話をする。俺自身の話と思ってもらっても差し支えない。できるだけ一般化しようと思うがどの道限界がある。人は、最終的には自分に引きつけた話しかすることができない。また簡単のため異性愛者を前提として話を進める。同性愛者が思春期に経験する機微について多くを想像することができない。

だいたいそういった男というのは、子どものころてんでモテない。またクラスの中心で快活に振る舞うタイプでもない。たとえば小学校で、クラスメートや教師から愛されるために必要な要素をほとんど持ち合わせていない。友達がいないとも限らないが、変なところで大人びていて、どこかなじめないような気持ちを抱えている。一緒に遊んでいてもそれに熱中することができない。

一般的な公立中学校に進んだ場合、それはある要素ではマシに、ある要素ではさらに厳しくなる。たとえば勉強ができることで一線を引かれるような感覚は小学校より薄い。ほとんど誰もが高校受験をすることになり、そこでは勉強ができることがほとんど唯一の評価尺度だから、周囲もそれを多少内面化して、勉強ができるということを素直に見てもらえるように(比較的)なりやすいと思う。一方で差異に基づく分化はより顕著になり、小学校のとき多少反りが合わなくても、趣味が違っても公園で一緒にボールを追いかけていたような暢気さはほとんど失われてしまう。

恋愛においてはどうだろうか。この頃思春期がもたらす両性の距離感はピークに達し、男女が隣り合う机を数センチ離すといった試みまでなされるが、一方で「誰それと誰それが付き合った」という噂がちらほらと流れるようになる。そこで「くっついた」と噂の俎上にのる人たちは物の見事に、スポーツができて(場合によっては勉強もできて)明るくかっこよい男子と、かわいくて性格が良く友達の多い女子であり、そこから外れた人々同士で稀に付き合うことはあっても、それはおおむねすぐに破綻するし、またクラスの人から羨望に近いまなざしを向けられるような「好ましい」関係になることはあり得ない。

高校、大学と進学するにつれて、階層が分化し、自分と比較的近い人間が集まることで(勉強の出来・不出来などに関わらず、おそらく誰にとっても)かなり生きやすくなる傾向にある。異性の趣味もかなり多様になり、そこでそれなりの割合がいわゆる「恋愛経験」を積むことができる。しかしそこでどれほどの経験を積んだとしても、仮に大学などで「モテる」部類になったとしても、小中学校で経験した疎外感が満たされることはなく、それは依然としてつきまとう。だからウエルベックが描く社会の構造を彼らは自分の経験から理解することができる。

「ちくしょう、二十八にもなって僕はまだ童貞だ!」予想はしていたが、やはり驚いた。その時の彼の説明によれば、残ったプライドが邪魔をして、彼はいまだに娼婦を買ったことがないのだそうだ。(中略)彼はその晩、週末でパリに帰る直前に、再び自分の見解を説明した。(中略)「そりゃあね、僕だって考えたさ。その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。土曜の夜なんてうってつけだ。そうすれば僕もようやくそれができるだろう。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている。僕はそっちでがんばりたいよ。今は、もう少しがんばってみたいんだ」(『闘争領域の拡大』、河出文庫、p.125)

ここで「モテない男」ティスランによってなされる独白は、仮に自分がそのような立場でなかったとしても、あり得た自分の境遇として理解できる。主人公はそれを受けて、次のように思いを巡らす。

やはり、と僕は思った。やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。(前掲書、p.126)

経済における格差も、あるいは性愛における格差も、いずれも近代の自由主義がもたらした病であり、また多くの人がそれによる恩恵とそれによる苦痛を同時に味わっている。こうした社会の構造を、(得てして彼らは会社組織のような茶番に付き合いきれないために)経済においても、そして性愛においても感じ取ることができる。仮に自分が「いま」どちらにおいても恵まれた境遇にあるとしても、そうでない境遇をあり得たものとして、あるいは将来起こり得るものとして受け取ることができる。そしてその現代の行き詰まりを書いてくれる作家としてウエルベックが受け入れられるのだろう、という月並みなことを考えていた。本を読みながらぼんやりと思っていたことなので雑な理路だが記しておく。

ところでウエルベックはグランゼコールを出ているエリートだが、国立パリ-グリニョン高等農業学校という農業技官を育成する学校であり、『素粒子』は実のところ遺伝子工学などの知見を採用したSF小説だし、『闘争領域の拡大』においても主人公はシステム・エンジニアであり、情報科学に対する見解が述べられたりプログラミングに関わる専門用語が用いられたりしている。それは小説の本筋とは関係がないが、自分はそういった「理系的な」道具立てを面白いと思う。『服従』はどこまでも人文系のインテリの話でそれはそれですごかったが……。


『闘争領域の拡大』を読み終わったあと、千葉雅也『アメリカ紀行』とTwitterを交互に見ていたら、頭痛がひどくなり、天気も最悪で、明日は平日なので、すべてがどうでもいいという気分になり、ふざけるなという気持ちで机の上に散らばっていたロキソニンを飲んでコンピュータを開きキーボードを叩き始めた。そしたらだんだん頭痛が落ち着いてきて、また文章を書くという作業は感情をニュートラルにする働きがあるので、なんだか何もなくなってしまった。


(追記) これを書いてから『アメリカ紀行』を読み終わった。