連想練習

いまから三十分間、頭に浮かんだことをできるだけそのまま文章にしていこうと思う。それが可能な試みなのかわからない。私は普段整理された文章を書く方だと思う。しかし今日はそれをさせるリミットのようなものを外して、できるだけだらだらと、脳に浮かぶランダムアクセス的な断片をそのまま文章として落とし込むことを目指す。すでにこの段落がわりと整理されていることに気づく。こんなんじゃダメだ。もっとランダムな文章を。もっと適当に書けよ、といってもそれは難しく、そもそもなぜこのような文章を書き始めたかというと、ちなみに、iPhoneのタイマーを三十分セットしてあって、まだ一分半だが、三十分もこれをやるのは確実に無理だという気持ちがある。で、元に戻すが、これは千葉雅也とかが書いた『ライティングの哲学』という本を読んで思ったことを試している。そのなかになんかなんとかライティングという手法があって、それについて全然調べてないんだけど、なんだっけ? なんとかライティング。そういうのがあって、あ、ノンストップライティングだ。それで、全然何かは知らないんだけど、その語感だけでこういう手法なんじゃないかと思ったことをいま試している。すごく疲れる。というかこれ録画しておけばよかったな。そしたら多分面白かっただろうなあ。まあいいや。まだたぶん五分も経ってないだろうな。これを三十分続けた先にどんなものが待ち受けているのか少し楽しみではある。家族が階段をのぼる音がうるさい。ちょっと休憩したい。そもそもタイピングをノンストップで三十分やること自体に苦痛があるよな。煙草吸ってもいいかな。うーん、なんか文章に落とし込むのと何か好き勝手連想していくということは全然違う試みだからそれを同時にやることがとても難しいな。どうやってもわりと整理された状態で出力されてしまう。そういうものを突破したい。そういえば谷川俊太郎が書いた文章1をさっき読んだんだけど、そこでなんか世界の側に言葉があって、自分はそれを拾っているだけで、その拾い方にエゴだかセルフだかいうものが出る、みたいなことを言っていて、それがたぶん詩のやり方で、俺は詩を書かないので、全然そういうやり方を身につけられていない。高原英里2が、ていうかこういう変換の過程で落ち着いてしまうので、そもそも正しい変換にしてやろうなどという試みが整理のひとつであって、それをやめたほうがいいのかもしれない。とにかく彼も、論理によらない説得力が韻文である、というようなことを云っていたと思うけど、短歌を詠むことはあるけど、どうしても普段かなり論理によったつくりかたをしてしまう。いわゆる詩的な飛躍みたいなものを出せない。その飛距離が適切だからこそ韻文が韻文たりえるんだと思うけど、これどこから持ってきたんだというような短歌の表現、あれはやっぱり谷川俊太郎と同じで世界の側から持ってきたんだと思う。そういうことができない。そういうことをやってみたい。といいつつ今だって、世界の側にある言葉ではなく自分の側にある言葉をただただ並べているだけで、なんだか奥深くに潜っているような感じがする。それは開かれていない。と、ここまで書いてまだ八分しか経っていない。ところで俺のタイピングは相当に早い。寿司打というタイピングゲームで一万人のうち三十二位になったことがあるくらい早い。あ、そうか、誤字脱字とか誤変換は書いてから修正すれば良いのか、いまはただただノンストップでキーボードを打っていけば良いのか。そうしよう。それでタイピングが相当早いと云うことはひたすら指を動かしていると云うことで、それを三十分続けられるのかわからない。なんか部屋が暑い。部屋が暑いのか俺の躰が熱くなっているのかわからない。あとで脚註も入れよう。読者に親切だから。あー、何も出てこない。何も出てこないというのは恐ろしい。何も出てこないわけはないのに何も出てこない。実際にはたぶん考えとして意識される段階にない考えのほうが萌芽みたいなものがいくらでもあるはずなのに、あ、ていうか誤変換とか修正しない方が生っぽくてよかったりするのかな? まあいいや、でそのほうがみたいなものがいくらでもあるはずなのに、てかほうがも一発で変換できないのかよこのATOKは、そいつらが意識される前に、いままさに書いている文章、それは幹みたいな物だけど、それに頭のリソースが割かれているがためにその芽が出てくることを意識できない、そいつらをキャッチできない、なぜなら脳のほとんどはいまその中心話題を文章にすることに使われているから、ほかに芽吹いている部分に気づくことが出来ない、だから何も出てこないんだと思う。本当はこんな文章なんかより、もうはるかにずっと脳の考え方はランダムなはずで、でも文章はシーケンシャルなものだから、それを実現することができない。それを表現することが出来ない。目についた物をひたすら書いていけばいいのかな? でもそんなものが面白いだろうか、だいたいこの机の上は乱雑でいくらかの本とキーボードとモニターとコンピュータとよくわからない細々とした文具とか封筒とかそういうものであふれている。それがなんだというのだろう? こんなに長い段落を書いたのは初めてだな、あと? のあとにスペースを入れてしまうのは文章を整理する試みのひとつだよな、でもそれはもう俺のなかで完全に内面化されていてそれを何も考えずともしてしまう。ということに気づく。あーもっとすごいいろいろな新奇な発想がたくさん出てくれば良いのにな。そういえば変な夢を見る人が結構いるけど、俺は全然変わった夢をみない。そもそも夢をあまり見ないのだが、友達とかに変な夢を見る人が多くてそれをずっと羨ましく思っている。本当に整理された文章ばかり書いているな俺は。ていうか文章って意外と接続詞がなくても読めてしまう、とくに順接のときは、ってことをさっきの本で千葉雅也が言っていた気がするけどこれがまさにその実例になりそうで、わりと脈絡みたいなものを見出してしまうんだと思う読者は、それでも俺は尚いま「それでも」とか「ていうか」みたいな接続詞をガンガン入れちゃってるわけだけど、それは俺自身がそれがないと認識できないからかもしれないけど、というか接続詞的に俺は考えているんだよな物事を、だから脳から出てきた段階で既に接続詞がついている気がする。だが、とかそれでいうと、みたいなことを書いてからそのあとの文章を書くことがある。俺は。いま何分経ったんだろう。全然飛躍していく気配がない。もっと神のもとへ近づいていきたい。急にスピリチュアルな感じになってるけど神というのは、うまくいえないけど、すごいってことだ。すごい領域に達したいということ。あ、非人間的ということだな。人間が普段社会を構築しているような言葉から離れたものをつかみたい。それが本当に難しい。というのは俺が実のところかなり社会に順応してしまっているというか、行動として順応しているかはともかく、内面が本当に順応してしまっていて、俺の行動が仮に反社会的だとしても、それは社会を内面化しているからそこにアンチすることができるわけで、社会はやはりそこにあるんだよな。だからめちゃくちゃな文章が書けないんだと思う。そういえば睡眠薬、前飲んでた奴は幻覚の副作用が出ていたんだけど、その副作用を味わいながら書いてた文章はマジでよかったな。あれはちょっと非人間的な領域、ふだん我々を拘束している常識みたいなものから離れたところにあった。どういう幻覚を見ていたかというと部屋に戦艦がいるという、部屋に戦艦がいるのを見ているわけじゃなくて、ただ「いる」という感覚があるというのを見ていた。俺の文章が整理されていると褒めてくれるひとがいるけど、これくらい適当に書いてもこれくらい整理できちゃってるんだよな。だから俺はほとんど苦労しない。むしろそうじゃないものをどうやって書けばいいのかわからない。あー、海に行きたい、ていうか冬って寒くて長くないですか。なんでいまレモンのイメージが浮かんできたんだろう、冬、夏、レモンというあれかな? レモンって夏だろうか。それはどうでもいい。いやどうでもいいっていうのが社会的な価値判断で行われていて、どうでもいいとか考えるのをやめたほうがいい。何もかもを出せよ。いまかも、って打った瞬間加茂が出てきてそれをふつうにひらがなに直したんだけど、あとでなおせばいいのについついなおしちゃうけど、加茂ってなに? なんかそういう野球選手いたよね、と思いながら野茂だと気づいている。なんか全然自由な発想ってものが出てこないんだなと思う、たぶんキーボードとテキストエディタが悪くて、これがあると規定されなければならないという感覚がある。もし紙でおなじことを書いていたらもっと違ったんじゃないかと思わなくもないが、紙の場合出力スピードが遅いので逆にもっと頭の中で整理されてしまう文章を書いていただけかもしれない。こんなことをやって何になるんだろうか? おれは突飛なことを考えるときも突飛さを仮構して考えているなと気づかされる。突飛なことを考えてみよう、と思って突飛なことを思いついている。それって全然突飛じゃないですよね。いわゆる不思議ちゃんみたいな人に憧れがあるなーでも穂村弘もたぶん全部仮構してあれ書いているよなだってエッセイを見るとあんなに敏感で社会的なものを意識し続けている人があの歌詠んでるとは思えないもんねあれは全部仮構だよねていうか句読点がいらないのかもしれない句読点って文章にまとまりをつける区切りだからそんなものがあるから全然自由な方向にいかないのかもしれないいまためしに句読点無しで書いているけどまあよみにくいけどかなりいいかんじじゃないですかこれのほうが本当っぽいでしょうなんかアルジャーノンの後半部分みたいだよねとかいってネタバレしてるけどまあこのブログ読んでる人でアルジャーノン読みたくてまだよんでないってひとはきっといないよね。でも句読点をつけないのはさすがによみづらすぎるかなーと思って今入れてみたけど、句読点って本当に休憩しているんだな、それを入れると一回タイピングが止まることがわかった。そういえばなんだっけ? たばこは句読点みたいなキャッチコピーなかったっけ? どうしてもたばこは心の日曜日、という日本専売公社の名キャッチコピーしか思いつかないけど、なんか句読点みたいなことを言ったやつもあった気がするんだよな。赤いシャツを着てるんだけど。あ、本当に断片を記していくと本当に突飛で、ていうか俺が読者に対して親切すぎるあまりにすべてを説明しようとしてしまうんだろうな、もう親切になるのをやめます。この文章そのものが説明のために書かれているもんね。そういうのやめよう。カスが。なんで親切にしなきゃいけないんだ。俺は別にこれで金をもらってるわけじゃないんだからそんな義務はありませーん、と思ったけど、読者以前にまず自分に説明しているんだこれは。だから文章に落とし込む時点で俺は自分の意識されない何かを自分に意識させるために何かを説明しているわけで、突飛なことを書いていきたいんだったらたぶんパラグラフの形式をとったらだめで、たぶん五文字とか十文字くらいの単語あるいはなんだっけ? 節か、そういったものを改行しながらばーっと書いていくべきなんだろうと思うからやってみよう。そもそもいま淀みなくキーボードを叩き続けているわけだけどそれのほとんどは説明のための修飾でその根幹にあるものはもっと短いはずだ。

暑い

いざなにも

うかばない

暑い

てかなんであつい?

冬なのに

まど

かゆい てつかれた

あつい

なんであつい?

あついしかかいてない

あつい

まど

すずしい

あみどおとでかい

あー

これでいいのか

これか

これだな

これからなんだ

これの組み合わせだ

結局

そういうことか

あー

わかったかも

なんか

あきたな

これ

いまなんふん

気が狂っていません

このちょうし

すごいやつ

できない

いかれてる

いぬほえてる

くるまだ

なんだこれ

よくわからなくなってきた

ぜんぜんなにも

あー

こーら、ぬるい

これが

これだった

のみもののんじゃお

ひかりだ

ひかり

なにもない

つらい

つらくない

くせでかいた

わるいくせ

にっきだるい

きょうはいいか

これなのかな

これでいいのかな

これでもまだだよな

なんかがたりない

なにだろう

あ、おわった