2022年2月18日 金曜日

昨日睡眠不足にしたのに全然眠れず(最近起き続けて一周させるやり方がうまくいかないことが多い)、日記を書いてから中島義道『働くことがイヤな人のための本』を読んだ。僕が持っているのは新潮文庫だが、信じられないことに単行本は日本経済新聞社から出たらしい。いいことだと思うが。

この本を最初に読んだのは高校三年の冬、そのときもそれなりに面白く読んだと思うけど、五年ぶり、そして四月から会社勤めとなる身で読むと全然違って、もっとずっと面白かった。そういうのが本を読んでいて良いと思うことのひとつかもしれない。文章は変わらないので自分が変わっていることがわかる。

ところで、正社員として働くことを前にしている身分だから面白く読めたというだけではない。僕は15日の日記にこう書いた。

俺はいまこんなにいろいろなことを感じてこんなにいろいろなことを考えているのにそれができなくなるってどういうこと?(中略)ではいまここにある意志は何のためにあるのだろう? これはいったい何なのだろう?

あるいは9日にはこう書いた。

もとより人間はすべて、知らぬ間に生まれ落ち、何かしらの及びもつかない力によって幸福になったり、あるいは苦境に陥ったりして、そしてまた知らぬ間に死んで消滅するだけの存在であり(後略)

こういった考えが最近頭をついて離れないのだが、本書の冒頭にはこう記されている。

自分がたまたま生まれてきて、そしてまもなく死んでしまう意味を知りたいのだ。(p.17)

あ、まさに今考えていることだ、と思ったし、なんなら線を引いて「まさに今!」とまで書いた。この本は仕事について述べている本なのだが、根本的にはそれを通じて引用した問題を考えようとしている。

いま書いてきたことは他人からすればどうでもいいことだろうが、本棚をなんとなく見て、久しぶりに読んでみるかと思ったら自分の考えていることについて書かれている本だったというのはすごく印象的だった。本の内容をまるで覚えていないつもりでいたが実は識閾下に残っていてそれが自分を再びこの本に向かわせたのかもしれないという精神分析めいたことまで思った。そりゃ面白く読めるというものである。


翌朝、なんとか起きてアルバイト。朝の眠気と夜の眠れなさを交換してほしい。アルバイトをしながらUCCのことを調べていて、あの缶コーヒー(茶・白・赤)が飲みたいなあと思ったのでそれを探して自販機を巡る。最近全然見ないけど、結局三十分か四十分くらいさまよい歩いて見つからず、諦めてボスのカフェオレを飲む。これを書きながら家から二十分くらい歩いたところにひとつだけ置いてある自販機があるのを思い出した。缶コーヒーは甘いものが好きだし、そもそも缶コーヒーでなくてもブラックとか飲めない。

缶コーヒーをお供に、人気のない中央道の高架下を見据える位置で煙草を吸った。風がないのでそんなに寒くない。帰りなんとなくの方角だけを意識しながら歩いていたら、「この道がここに出るのか」を体験できて嬉しかった。あと途中の公園に驚くほど長くしっかりとしたいい枝が落ちていて、とてもいいので持って帰ってやろうかと思ったがおそらく公園で遊んだキッズが置いていったものに違いないと思い、彼らが明日以降も遊べるようにそのままにしておいてやった。でもそんな遠慮せずに持って帰ってくればよかったかもしれない。部屋にいい枝があったら気持ちが落ち着くと思う。そういえばカズレーザー同志社にいたころ河原でよい流木を拾って彫刻家だかに渡すというアルバイトをしていたという話を聞いたことがある。彫刻家のお気に召せば一本五千円、そうでなければ支払いはなし、といった条件だったと思うが、あの枝であれば(枝は流木ではないが)五千円は堅かったと思う。

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家に帰ってから適当にいろいろな本をつまみ読みして、友人らとやっている交換日記に軽い文章をよせて、それからいまこれを書いている。