2022年2月21日 月曜日 「またお会いしましょう」

さきほどまで中島義道『私の嫌いな10の言葉』を読んでいた。先日読んだ『働くことがイヤな人のための本』と同様、これもずっと以前に読んで以来久しぶりに読み返した。彼の文章は歳を重ねると面白さが増しますね。それを読みながら思ったことを書く。


私は他人の考えていることがあまりよく判らない。たとえば私は他人の目を見て話すことができないので、「口ほどに物を言う」と云われる目から得られたはずの情報をほとんど得られないし、また目を見たところでそこから何事かを察知する訓練を経ていないので、ほとんど何も読みとることができない。目に限らず、声色や表情といったボディランゲージ全般から何かを察するということが不得手である。

かといって書き言葉・話し言葉であれば判るのかというとそうでもない。言葉を常に文字通りに受け取ってもそれが正しいとは限らないからで、私自身だって皮肉のひとつやふたつ言うのだし、噓もつくのだし、冗談も言うのだから当たり前のことだが、他人からそれをやられてもそうと気づかないこともある。私はアスペルガー症候群の診断を受けているが、さもありなんというところである。

こういった能力は歳を重ねるにつれてましになっては来ている。経験を積むにつれて大方相手が何を考えているか判るようになってくる——と思っているが、そもそもアスペルガー症候群でない「健常者」であっても、本当に他人の気持ちが判っているのだろうか。

たとえば高級なレストランで、ウエイターから何か不快な対応を取られたとする。私がそれに文句をつけると責任者がテーブルにやってきて丁寧で真摯な謝罪をする。そのとき、彼/彼女は内心くだらないことと思いながら職務上仕方なく謝罪しているのか、あるいは本当に、心の底から顧客を不快にさせたことを申し訳ないと思って謝罪しているのだろうか。高級なだけあって責任者の謝罪は一級品である。私にはその区別がつかないし、どちらでもいいのだが、それは一般的にも区別できないものではないだろうか。

私は言葉を文字通りに受け取ることしかできなかったから、いまでもなお、根源的には発された言葉、書かれた言葉をそれが示す最も端的な意味で信用している。つまり、すみませんと言われたらすまないと思っているのだなと理解するし、またお会いしましょうと言われたらまた会いたいんだなと理解する。

いまではもちろん、すみませんと言っていてもどうでもいいと思っていることもあると知っているし、またお会いしましょうと言っていても全然会いたくないと思っていることもあると知っているし、また私も今では謝りたくもないのにとりあえず謝ってみたり、顔も見たくないが社交辞令としてまたお会いしましょうと言うこともあるのだが、そういうのって馬鹿みたいだなという気持ちがどうしても拭えない。

誰でも、そうした言葉の意図を読み違えることがあるのではないだろうか。そしてそれで後々恥ずかしい思いをしたり傷ついたりしているのかもしれない。場合によっては誰かのことを誤解したままで人生を終えるのかもしれない。そういうのって残念だし、また誰もが迂遠なやり方をしてそれによって誰もが不幸になっているなんて滑稽にも程がある。だったらどうでもいいときには「どうでもいいと考えております」とか、会いたくないときは「あなたには会いたくありません」と言った方が簡潔ではないだろうか。それが相手の名誉や、それこそ気持ちを傷つけるのかもしれないが、それらがいくら傷つこうが会いたくないものは会いたくないのだし、また往々にして「またお会いしましょう」と言った相手が本当は自分に会いたくないのだと別の場面で察してしまうのであって、そこで相手を傷つけるくらいならば最初に傷つけたほうがいいのではないだろうか。

いや本当は、相手を傷つけないためなどというのは二の次で、私がとりあえず社交辞令を述べるときは、相手のことを傷つけたくないという以上に、ストレートにものを言って自分が相手を傷つけているという罪の意識を持ちたくないこと、そしてそれが周囲に明らかになることによって人の気持ちが判らない冷血な人間であるという烙印を押されたくないこと、といった保身が第一なのだが、そういった保身をしてしまうようになった自分を大変情けなく思う。

子どもの頃は、間違っていると思えば教師であっても「それは間違っていると思います」と悪気なく——いや、自分のほうが正しいのでそれを知らしめてやろうという悪辣な感情を伴いつつ——言っていたものだが、仮にそういった悪辣な感情を伴っていたとしても、間違っていると思ったときに間違っていると言える方が美徳であると思う。いまでは自分より目上の人があからさまに間違ったことを言っていてもとりあえず受け流しつつ「あいつは何も判っていない」などと他の人と陰口を叩くのだから、それに比べたらどんなに立派な態度だろうか。そしてそのような態度を取ることを「大人になる」と形容するのであれば大人になどならないほうがいいと誰でも一度は感じたことがあるはずだ。

話がいささかこんがらがっているが、心にもないことを言うとか、あるいは言外の意味やボディランゲージによって何かを察せよという、ある意味洗練された文化を馬鹿らしいと思っているのは、誰でもそれを読み誤ってしまい、不幸な思いをすることがあるからであり、またそれがなされるのが第一には保身のためであって、本当には相手のことなど何も考えていないから、という二つの理由に帰着する。そしてそのやり方をいくらか身につけてしまったことが本当に情けない。

もし相手のためになることを本当に考えるのであれば、たとえば相手が間違っていると思うときには受け流して陰口を叩くのではなくて、それは間違っていると思いますとか、そこまでストレートに言わないまでも「ちょっとおかしいんじゃないでしょうか?」くらい訊いてもいいと思うし、またそうすべきだろう。それで相手の言うところを聞いて、もし相手ではなく自分が間違っていたならば失礼しましたと言えば良いのだし、それでもやはり相手が間違っていたのであれば、向こうがそれに気づければ今後相手は間違えなくて済むのかもしれない。他の場合でも、たとえば「またお会いしましょう」という言葉を「馬鹿正直」に受け取った相手が私と会って時間や労力を無駄にしなくても済む。私も会わなくて済む。そういう風に生きられたらどんなに美しいだろうか。世の中がアスペルガー症候群だけで構成されていたら、それであっても見栄や名誉やプライドはかたくなに残り続けるだろうが、相手のそれらを尊重するという名目で持って回ったやり方をして結局尊重されないということが発生しないだけ、いまよりずっとましな社会ができあがっていたのではないかとすら思うのだが、どうだろうか。

私は以上の理由で、たとえば「またお会いしましょう」と言うときは本当にまた会いたいと思って言っていることが多く、会いたくないときはそうはっきりと口にしないまでも、肯定的なことをできるだけ言わないようにしているのだが1、それも保身2であり、また相手に察することを要求するコミュニケーションだが、心にもないことを笑顔で言うよりはいくらかましな態度であると信じてそうしているので、皆さんもそう感じたらぜひ取り入れていただけたら、私が生きやすくなるのでありがたい限りである。


  1. それはそれとして、言ったときは会いたいと思っていても、いざ会う段になると天気が悪いなどの理由で気乗りしないこともあって、厄介ではある。そういうときはストレートにそう言ってしまうことが多い。そうすれば相手に自分のことを誤解されないで済む。

  2. 本当は、「いくらかましな態度」どころか、心にもない(が、相手が言ってほしいと思っている)ことを言ってあげないだけずっと保身を図っているのかもしれない。その自覚はある。