実録・市ヶ谷の釣り堀

総武線市ヶ谷駅のホームから、釣り堀が見える。外濠の一角を区切った形の釣り堀だ。東京にいくらか住んだ人はみな認知していて、気になっていると思う。私もそうだった。

会社で、人事の人と新卒の同期と雑談しているとき、その釣り堀の話になった。知っていて、気になるけど行ったことのない場所として。いま、私は四月に入社した会社において、配属志望を表明してから、実際に配属が発表されるまでの、謎のモラトリアムとなっている。私だけでなく同期は今みなやることがない。

そういうわけで、人事の人を含め、懇親がてら(というほど立派でもなく、もはやただの暇つぶしとして)市ヶ谷の釣り堀に行く運びになった。こんな呑気な会社でいいのか、とは思う。もちろん、ほかの社内の人には公言できない。「配属されたら大変だから、まあ今のうちに」と人事は言っていた。

いろいろこなして、みなで市ヶ谷に揃ったのは午後4時くらいだっただろうか。もちろん勤務時間中である。鯉釣りは1時間で1000円。簡単な竿と餌がもらえる。

私は釣りをまったくやったことがなかったので、一応釣り堀にきたことがあるという同期・Nくんに教えを請いながら釣った。なかなか引っかからないがこんなものか、と思いつつ、走っていく電車が外濠の水面に映るのを眺める。

同期のYさんが早速釣り上げて、その人はとても真面目で器用なのだが、何をやらせても上手らしい。他の人はわりと苦戦していた。

そんなところに、釣り堀の主のような中年男性がやってきて、お兄さん方苦戦してるね、などと話しかけてきた。「餌が固すぎるんだよ」

「餌が固い。ウキがピクピクしているでしょう。これは魚が餌に反応はしているということ。餌をまわりで突っついてる。でも、固くて食べられないって魚は言ってるんだよ」

そう言うと主は、やおら手を釣り堀の水につけて、餌をこねくり回した。もともと配られた餌は非常にぽろぽろとして、力を入れて固めないと水中で釣り針からこぼれ落ちてしまう。

そこを、水気を含ませて練るようにすることで、魚が食べられる柔らかさと、形を保持する粘性をつける方針らしい。人事の社員の餌皿を使って、主は瞬く間に餌を形成していく。

そして竿を人事に持たせて、ウキの位置や竿を引き上げるタイミングを指導する。そうすると瞬く間に釣れる。すごい。

同期のNくんにも同じことをする。彼の場合はすぐには引っかからず、餌を持って行かれてしまう。しかしそれでいいのだと言う。「魚に、ここに柔らかい餌が落ちてくるぞ、ということを覚え込ませれば、またそこに集まってくるから大丈夫」らしい。やがてNくんも大物を釣り上げた。

私もそれを見て、手を思い切り釣り堀に入れて餌を混ぜ合わせると、「水を入れる必要はない。手に水をつけるだけ」との指導をいただいた。少し水気を含みすぎてしまった私の餌を、主は自分の餌と混ぜ合わせ、良い塩梅になったそれを私の皿に戻してくれた。この柔らかさを覚えておけばどこの釣り堀でも釣れるよ、と言う。

そして餌の付け方。餌を固める、そしてその塊の真ん中に針がくるように刺す。涙型になるように形を整える。そして静かに水中に垂らす。竿は、テンションがかからないようできるだけ低く持つ。魚はそのテンションに違和感を感じて食いついてこないそうだ。

「釣り堀なんてこれだけの話。釣る時間が20秒30秒短くなるかもしれないけど、この手間(餌を練る手間)を惜しまなければもう嫌になるほど釣れる」「飴玉とマシュマロ。どちらが食べるのに時間かかりますか。マシュマロを入れたら魚はすぐに食いついてくる。飴玉だと溶けるのを待ってこぼれ落ちるのを食べる戦略になる」「釣りなんて小学校の算数より簡単。小学校で足し算引き算掛け算割り算とかいろいろ覚えなきゃいけない。でも釣りはこれ(餌の練り方)だけ」「これだけのことをあなたできませんか、って話」主は次々と箴言を残していく。

私は、餌は良くなったのだろうがうまく竿を引き上げるタイミングが掴めない。ウキがぴくっとなったところに思い切り竿を引き上げれば良いのだが、「遅い」と何度か言われる。「でも魚の反応が来てるということは大丈夫。じきに釣れる」と励まされる。

今だ、と思って引き上げる。かかった気がするが、竿を持って行かれそうになって思わず立ち上がると、魚が離れてしまった。「座った状態から立ち上がるとき、人間は一瞬竿を緩ませる。そこで魚が逃げていってしまう。だから立つなら立つ、座るなら座るでやったほうがいいよ」

私がこのようなアドバイスを受けている間にも、指導なしでも釣り上げていたYさんなど、もはやひっきりなしに釣果を挙げる。私も一匹くらいは釣りたい。

気づけば主は釣り堀の反対側に陣取った自分のポジションに戻っていた。引き際の良い。普通、中年男性にやり方をアドバイスされるなんて、気持ちの良い体験にならないことも多いが、今回の主は軽妙な語り口と確かな技術だったのでそこまで不快さがなかった。若い女性に話しかけようという下心もなさそうで、より多くの人に釣りを楽しんでもらうための伝道師という感じがした。

私は餌を固めるのだけがどんどん素早くなって、それがうまいこと魚に(針にかからずに)餌だけ取られてしまうので、気づけば残り少なくなってしまった。同僚のKさんは釣り針を取られたと言ってギブアップ。後から聞けば、生きた魚が苦手なので、針がなくなったとき安心したらしい。もはや、引が切らないYさんと私だけが釣りを真剣にしている。

餌が残り2回分くらいかな、というところでウキに明確な反応があった。かかった。Mさん(私の名前)、ここで決めてください、と人事の上司が言う。私は思い切り竿を引き上げる。釣れた。嬉しい。主に向かって、釣れましたよ、と顔を向けると主は自分の釣りに夢中だった。

私は満足して、灰皿の近くで一服する。Yさんは、ほかのひとの余った餌を使ってまだ格闘を続けている。私が一本吸い終わろうとしたら、Yさんがちょうどもう一匹釣りあげて、終了となった。

ここまで充実したコンテンツが1時間で1000円。平日の真っ昼間から往来する電車やホームの背広たちを眺めつつする釣りは格別で、ぜひまた来ようと思った。

主は、釣り堀のなかにいる鯉にも詳しく、あちらのエリアには昔7kgのボスがいたとかいう。私も釣りの経験を積み、仕事の昼休みだけ釣りを楽しむような、呑気な常連になりたい。ちなみに主は、冒頭の写真に写っている巨漢である。いったい、何で暮らしているのかわからない。