ゆっくりと死んでいく

このまえも書いたことだが、会社でやることがなく暇なので、最近はいくらか余裕が出てきている。本を読み、文章を書けるようになった。いつでも、その渦中にあるときはそれについての文章は書けない、と思う。そこから抜け出すために書くことはできるかもしれないけれど。

余裕というか、退屈しているのかもしれない。新しい環境に放り込まれて、まったく付き合ったことのない人と話し、いろいろなしきたりを覚えなければならない状況から少し解放された。そういう状況は疲れるけれど、充実しているといえば充実している。

だからいまの生活が楽しくないわけではないが、一方で最近はずっと、ゆっくりと死んでいくような感覚がある。それはたぶん、経済の状況がいよいよ悪化しつつあることが一番大きな原因だと思う。ここ二十年ほど日本の経済はずっと停滞し続けてきたが、それが本当に目に見えるようになってきたように感じられる。そしてそれを打開できそうな要素はなにひとつ思い浮かばない。

給与明細を見れば社会保険料が、喫茶店でコーヒーを六〇杯飲めるくらい引かれていておののく。中堅出版社の初任給なんて高が知れているのに。セブンイレブンで弁当を買おうとしたら、軒並み五、六百円で、以前からこんな価格帯だっただろうか。そんな値段で買ってもコンビニの弁当なんて虚しい食事だ。煙草をすぱすぱと吸っているくらいだから、それが払えないわけじゃないけれど、すべてがそのような調子で値上がりしていて、一方で給料はそのようには上がってはいかない。そういうことのひとつひとつに疲弊させられる。

高校や大学時代の友人たちもおおむね、そんなに余裕があるようには見えない。もちろん、もらっている人はもらっているが、その分長時間働いているだけということが多い気がする。あるいは、特殊な専門性を要求される職業に就いているか。そんな人は一握りで、それなりの大学から立派な会社に入った人たちがこうした生活水準ならば、そうでない人はどのように暮らしているというのだろうか。もっとも富の集まる都市に暮らしていてこれなら、そうでない土地はどうなっているのか。ふつうの人がふつうに暮らし、ふつうに結婚し、ふつうに子供を産み育てられる社会——我々がそのようにして産み育てられた社会——はどこへ行ってしまったのだろうか。

そんなに余裕がなくても、いまは楽しく暮らすことはできる。図書館で本を借り、コンビニでコーヒーを買い、公園に行ってベンチで読んだりすればいい。帰りには銭湯でも行けばよい。それで十分楽しい休日だろうと思うが、それはかつての豊かさの残滓を利用しているだけで、このような世情が続いてなお、図書館や公園といったインフラを維持し続けられるとは思えない。屋外のベンチで読書なんてしていられるほど暢気な社会であり続けられるとも限らない。

このように書き記してみても、経済を上向かせる方策など思いつきもせず、またそれを実行することもできない。誰にもできないのではないか。国の富全体が縮小していくなかで、自分がいまより豊かな暮らしをしようとすれば、誰かの富を奪うことしかできない。本来は富が拡大していくはずなのにそうでないから。そしてまた、自分の生活がさらに豊かになるために必要な最低限の基盤、それなりの治安や安定した物価、安全なインフラ、そうしたものすらもう危うい。そんな社会は疲れる。疲れて、ゆっくりと死んでいく。

繁栄のこの夜を熱き涙もて思い出す日の来たるかならず(林和清)