Internet is (not) dead.

インターネットを毎日利用するようになってから14年が過ぎた。2007年のクリスマスにレノボのコンピュータを買い与えられたのがその始まりで、明確に覚えている。僕は今年24になり、つまり人生の半分以上をインターネットとともに過ごしている。そしていま、インターネットはほとんど死んでいるように思う。

そのクリスマス以降、コンピュータとインターネットに急速にのめり込んだ。父も母も、そのころはiモードのことをインターネットだと思っているような人間だったので(それなのになぜ自宅にインターネット環境があったのかわからない)、僕は何の制約も受けずに自由にウェブページを閲覧していた。

最初に使っていたコンピュータはメモリが512MBしかなく、Celeron1か何かが載っていて、いま使っているMacBook Pro——Core i5と16GBメモリを搭載している——と比べたら本当に古めかしいマシンで、たとえばiPhone 5sのほうがよほどよくパワフルだが、インターネットも当時は同じように古めかしかった。

その頃、ニコニコ動画はまだスタートしたばかりで「β」だった。Twitterはまだ英語版しか存在していなかった。SNSといえばmixiだった。そもそもそれらのサービスはまだ、インターネットの中心を占めてはいなかった。当時、Googleで何かを調べてヒットするのは、主には個人のウェブページかブログだった。

そこには個人の熱量があった。それらは金銭的利益を得るためにつくられたものではなかった。人々は自分が本当に伝えたいことを伝えるために、残したいことを残すためにインターネットを利用していた。Yahoo!ジオシティーズに、FC2 WEBに、はてなダイアリーに、ココログに、彼らはそれらをアップロードした。そしてキーワードを入力するだけでそこにアクセスできた。それはシンプルで洗練されていて、そして機能を果たしていた。

人々は日頃口にできないことを口にするためにもインターネットを使っていた。それは主にBBSやチャットで行なわれた。誰もがハンドルネームを持ち、顔写真を載せることは厳に慎まれ、おかげでオフラインの人格とオンラインの人格はほぼ完全に切り離されていた。その代表格はもちろん2ちゃんねるで、そこではハンドルネームすら一部のユーザしか持っておらず、犯罪予告から観葉植物に適した肥料まで、およそ人間の考えつくことであればほとんど何でも書き込まれていた。


翻って2022年、誰もが思っていることだし、実際によく云われているが、インターネットは本当に使い物にならなくなった。それはほとんど死んでいる。どのようなキーワードを以てしても、まともな情報にたどり着けない。金儲けのために粗製濫造されたコンテンツが跋扈していて、クリックすれば広告であふれているか、コンテンツ自体が広告である。

一部の人々はGoogleの代わりにTwitterやInstagramでなにかを調べるようになった。それはGoogleよりましな手段かもしれないが、金儲けを目的としたコンテンツはやはり多い。リスペクトのない転載やステルスマーケティングにはなんらの熱量もなく、フォロワー数を武器に人々を誘導し、金銭を得ようという画策が満ちているだけだ。

そしてまた人々は、以前とは逆にインターネットで口にできないことを現実で口にするようになった。SNSによってオフラインの人格とオンラインの人格は以前より結びつきやすくなった。そこで少しでも不用意なことを云えば、仮に大多数の人がそれを不適切と思っていなかったとしても、それはすぐに発見され、集団リンチの対象となって、そのうち論争ともいえぬ論争を引き起こし、収拾がつかなくなる。嵐はじきに過ぎ去り、嵐を巻き起こした人々は別の話題に夢中になっているが、そこに至るまでにオフラインの社会生活にも影響を及ぼす場合がある。

ジオシティーズなどのホスティングサービス、ヤプログ!などのブログサービスの終了という災厄を経ても、個人のウェブページやブログは潰えておらず生き残っていて、まだそこで情報を発信する人々は多いが、もはやそれを発見する手段がない。誰かがたまたま発見してSNSでシェアしたとか、Googleの検索結果の3ページ目まで見たらヒットしたとか、そういった偶然を待つしかない。


インターネットはどうしてこうなってしまったのだろう。きっとこの議論も手垢のつくほどなされていて、たとえばスマートフォンやSNSの台頭が原因として挙げられているのだろう。

それらの誕生で、インターネットが起こした「誰もが気軽に情報を発信できる」という変革はより実質的なものになった。もうHTMLなんか覚えなくてもいい。まとまった文章を書く必要もない。携帯さえあればiモードのような箱庭ではなく直接インターネットを思う存分使える。その結果がこれだと思うと涙が出る。

それによって、インターネットは社会そのものになってしまった。社会がくだらないのと同じかそれ以上に、インターネットはくだらないものになってしまった。電車に乗れば脱毛と英会話の広告であふれているこの社会がそのままネットワーク化されてしまった。いまのインターネットが現実の社会より悪い点は、前者ではコミットメントが要求されないことだ。

かつてのインターネットでは、コミットメントは要求されていた。個人でウェブサイトを開設し運営するには、当然それなりの労力が必要だった。ブログでも、いくらか軽減されるとはいえそれは同じことだった。匿名掲示板ですら、コミットメントが必要だった。ウェブサイトやブログとは異なり、書き込みではなくむしろ書き込まないことによって。「半年ROMれ」というスラングはその象徴である。そのコミュニティを支配する(明文化された、あるいは暗黙の)ルールを理解することが求められた。

現実の社会でも、コミットメントは当然必要だ。それは授業を受けることかもしれないし、会社で働くことかもしれないし、友人にプレゼントを渡すことかもしれない。手法はかつてのインターネットと異なるにせよ、公でも私でもコミットメントがなければ社会で相手をされることはない。

コミットメントとは、言うなればコミュニティを維持するために手間を割くことである。それはウェブサイトの運営2かもしれないし、匿名掲示板のルールの理解かもしれないし、プレゼント選びかもしれない。いずれにせよそれらは、ウェブサイトや匿名掲示板や交友関係といった大小のコミュニティを維持することに貢献していて、そのために手間を割く必要がある。

そうした手間を割くなかで、インターネットであっても現実の社会であっても、ほかの人がそれぞれ考えを持っている、独立した人格ということが諒解される。それを尊重するかどうかは別として3、その諒解によってコミュニティは単なる寄せ集め以上のものになる。そしてそれが要求されないために、単なる寄せ集めになっているのがいまのインターネットではないだろうか。


いま、たとえばTwitterを利用しているなかでTwitterというコミュニティを維持するために手間を割いている人がどれだけいるだろう。ほかのどのようなサービスでも同じだ。そもそもTwitterをコミュニティと捉えている人がほとんどいないだろう。それはあまりにも大きすぎる。

SNSにおいては、フォロー・フォロワーのコミュニティは維持しようと努めている人も多いかもしれない。でもそれは、まさしく現実社会をネットワークの上に移した形に過ぎない。現実に知り合いであろうとなかろうと、現実と同じように人間関係の悩みがある。そして人間がそれを維持できるのはせいぜい数十人程度の集団ではないだろうか。数百人ではもう無理だろう。現実と異なる場合——その規模を超えるとか、クローズドでないとか——は、現実以上の苦労がつきまとう。

人格が諒解されていないために単なる寄せ集めになっているインターネットの姿は、粗製濫造されたコンテンツやSNSでの炎上にも見て取ることができる。前者には人格らしい人格がそもそもない。どんなにひどいコンテンツでもどこに意見すればいいのかすらわからないことがある。仮に運営元と称された法人格が記載されていても、本当に誰がその文章を書いたのかなどわかりはしない。そこに問い合わせる方法があったとして、対応されるかもわからない。それは人格とは言えない。

後者の場合は、人格は存在するが言葉が切り離されている。最初は言葉だけが消費され、拡散され、そして炎上していく。前述したように、その過程で現実と結びつくことはあるが、そこで結びつくのは氏名や現住所や職場といった個人情報以上のものではない。その人が現に生きて何かを考える独立した個人であるということは誰も理解していない。そうでなければ炎上したときに巻き起こる攻撃的な振る舞いをできるはずがない。4


いまのインターネットを見ていると、これなら現実の方がよほどましだと思うが、僕はインターネットに本当に助けられてきた。

インターネットに落っこちている文章に救われて、その人のファンになったり、はたまたそれが人生の方向性を決めたりした。プログラマーやデザイナーとして働くうえでインターネットの情報がなければ絶対にやっていけなかった。そもそもインターネットがなければそれを志すこともなかった。聞いてきた音楽や読んできた本もインターネットから多く影響された。チャットで顔も名前も知らない人の悩みを聞いて泣いたこともあった。そうして現実の友人になることもあった。

だからいまインターネットはほとんど死んでいるけれど、少しでもその死を遠ざけるために、ほとんど金にもならない文章を、手間を割いて書いている。5それは単なる懐古主義じゃない。それはコミットメントだ。Googleが役に立たなくても、SNSがインフルエンサーに支配されていても、インターネットにある限りは、誰かはこれを読むだろう。この文章は愚にもつかないかもしれないが、少なくとも僕が書いている。生きていて何かを考えるひとりの人間が書いている。そしてこれからも継続して文章を書く。そうすれば僕という人格の一部を誰かが諒解してくれるだろう。それは現実の自分とは異なるかもしれないが、少なくとも人格ではある。運が良ければ、誰かが僕に触発されて文章を書くかもしれない。それをまた誰かが読むだろう。そしてその人の人格を諒解するだろう。そうしたコミットメントの連続によってしかインターネットが完全に死ぬことを免れることはできない。これはインターネットでなされた誰かのコミットメントに対する応答だ。


  1. セレロン。インテルのCPU。廉価で、ローエンド向けで、おおむね安い代わりにパフォーマンスが低い。

  2. ウェブサイトの運営はコミュニティと関係のない個人的な行為という側面もあるが、実際には設置されたBBSやチャットや、あるいは相互リンクといった文化によって、ある程度独立性を持ちながら、それ自体が、あるいは他のウェブサイトとの関係によるコミュニティを維持していた。

  3. たとえば匿名掲示板では明らかにそれは尊重されていなかった。しかし、匿名掲示板では趣味や趣向によってコミュニティが細分化されており、高校や大学や会社が、誰もが尊重し合っていなくてもある種の選別によってそれなりのコミュニティを維持しているのと同じような形で、匿名掲示板も維持されていたのだと思う。

  4. 現実の社会でも、他人が独立した人格を持っていることを理解しない人は一定数いるが、彼らは基本的に人間関係を維持していくことが難しいので、徒党を組んで力を発揮するかのような影響力を持つことはほとんどない。

  5. Amazonアソシエイトのリンクを貼っているけど、金にはならないしそれがなくても文章を書くだろう。現に書いてきた。