ほんとうのこと

以下の文章は昨年(2021年)の秋口に、友人たちと行っているクローズドな交換日記に寄せたものだが、久しぶりに読み返してみると、乱暴ながら悪くないと思えたので、一部の表現を現状に即して改めた上で公開する。


ほんとうのことはどこにあるんだろう?

ペダンチックでインテリ好みのあの劇団はパワハラが横行している。しゃれた空間で進歩的な映画を上映してくれるミニシアターの経営者はサイコパスだ。Twitterフェミニズムの精神をとうとうとつぶやくあのアカウントは今日も、その映画館で上映されたアジアのどっかで作られた映画の半券をツイートしている。普段は威勢良く政権の人権軽視を批判しているあの劇作家は身内の不祥事にはだんまりだ。

こんなのは戯画化した見方だとわかっている。劇作家のあいだでもハラスメントは絶対に許さないと改めて意思表示はあっただろう。二度とその劇団の公演を見ず、また当該の映画館に行かなければそれで誠実というわけでもないだろう。

でもこういうことが起こるとうんざりする。その程度の覚悟なら最初から何も言わない方がまだマシなんじゃないの、と思ってしまう。そんなに自分が正しいだけの人間じゃないなら、その正しくなさも含めて、ちゃんと言ってくれよ。それがほんとうのことじゃないか。


両親をラベリングしようとすれば、「マイルドヤンキー」「B層」みたいなレッテルを貼れると思う。実家には、俺の部屋にあるものを除いては、書籍は芸能人(たとえば菜々緒とか)の写真集しかなかった。父は車で湘南乃風の「純恋歌」を流しながら「やっぱこういうのがいいと思うんだよね」と言っていた。母はシャネルのロゴを額縁に入れてリビングに飾っている。マジで趣味が合わん。

そういう家で生まれながら、Spotifyの「2021年まとめ」を見るとトップアーティストが「フィッシュマンズ」な俺が育った。投票なんか一度も行ったことのない両親から政治学科に進学してしまう俺が育った。

俺は親のセンスや生き方が恥ずかしいものだとまったく思っていない(うけるな、とは思っているけど)。いや、特に高校に入って以降、周りの生徒のご両親と話すとなんて文化的なんだ、なんて知性的なんだ、と思わされて引け目を感じるようなこともあったけど、でもそれはある一面からの引け目で、良い大学を出て空調の効いた職場でホワイトカラーの仕事をし、健康で文化的な生活を送っている人たちより、大学どころか高校も怪しいけど、穴掘って水道管を工事したり夜の仕事をしたりしてでも子どもを曲がりなりにも三人育てて、とりあえず一人は大学までやっているうちの親の方が立派じゃないか、と思うときもある。だって父親が体を使って水道管をつながない限り水も飲めないしトイレも流れないんだぜ。

理知的で、穏やかで、政治に誇りを持って参加している、善良な人々の言葉はしかし、俺の親には届かない。Twitterで延々とディベートをしている人たちの視野に、水道管をつなげている人は入っていますか? そこで理想論を語っていれば、中卒のキャバ嬢にも内面化されると思いますか? その素晴らしい、論理的な言説は、でも、絶対に俺の親には届かないし、そして彼らの考え方を変えることもないんだよ。そんな言葉のどこがほんとうなんだよ。


両親は、特に父は、俺に勉強をしろとたくさん言って、そしてお金をたくさん使ってきた。なぜ勉強をさせたかというと、良い大学を出て、良い会社に入ってほしかったからだ。そうして、自分たちのような世界とは縁の無い生活を送ってほしかったからだ。炎天下に空調服を着て工具をいじる必要もなく、くだらないおっさんの話を適当に受け流しつつ酒を注文させる必要のない生活を。俺の生物学上の父親がわりと賢かったこともあって、そしてやはり教育に投資を惜しまなかったので、それは一旦(「良い大学に入る」くらいまでは)成功した。その結果見えた世界は、マイルドヤンキーのことなんか意にも介さない人たちが耳障りの良いことを言っている。大卒しか取らないで肌の色が違うだの宗教が違うだので多様性とか誇らしげに言っているんだから呆れる。そうしないよりずっとマシかもしれないけれど、その多様性はずいぶん狭いんですね、と思わざるを得ない。

全然、何も信じられない。きれいごとを言う「リベラル」も、きれいごとすら言えない「リアリスト」も。そのどちらかだったら前者の方がマシだと思っているから、自分はそういう政治的な態度を概ね取っているけど、でもここはひどい世界だよ。ほんとうのことはどこにあるんだよ。


みすず書房人文書院をありがたがって、書店の目立つところに平積みになっているビジネス書を馬鹿にするような感覚は、間違っていると思いつつたしかに自分にもある。『花束みたいな恋をした』で菅田将暉が『メモの魔力』を手に取ったシーンは哀れだったよ。でもうちの親なんかビジネス書すら読まないんだよ。池上彰中田敦彦の「わかりやすい」解説はたしかに罪深いね。でもそれがなかったらなにひとつわからない、という人がいるんだよ。それがあるおかげで「なんか中東でよく揉めてるのは、イギリスがもともとの原因らしい」くらいの認識が持てるんだよ。紋切り型の単純化された認識をするくらいなら何もわからなくてもいい?

母が、唐突に「宇宙ってめちゃくちゃすごいんだよ」と言ってきたことがあった。なんでも、あるモデルのポッドキャストを寝る前に聞いていたら、たまたま国立天文台の縣先生がゲストで、宇宙の話がテーマだったらしい。俺はそれを聞いていないから判らないけど、たぶん科学的な正確性、厳密性を多少犠牲にした、「わかりやすい」話だったんだと思う。母はそれまで宇宙のことなんか何にも興味がなかったのに、それを聞いていたら「宇宙、すご!」となったらしい。

それってとてもいいことじゃないだろうか。人が人として生きる喜びのひとつじゃないだろうか。アカデミアの用語で言えば「アウトリーチ」そのものではないか。池上彰中田敦彦を否定する人は、母に宇宙のすごさを、父親にどうして中東で戦争が絶えないのかを、両親が理解できる言葉で、彼らの代わりに教えてくれるのだろうか。そうじゃないなら、象牙の塔に引きこもって、学問の必要性が理解されない、とか、ポスドクの待遇がどうたらとか、いつまでも愚痴っていればいいと思う。「わかる人にだけわかればいい」という態度では、本当にわかる人にしかわからないのだから、理解されないのは当たり前じゃないだろうか。

もちろん、アウトリーチは重要だと認識していて、それでも池上彰中田敦彦)のあの解説は、いくらわかりやすさのためでもこうこうこういう理由でいただけない、というまっとうな批判も多いのだとは思うけど、「わかりやすさのための単純化」すべてが批判されているように思われるときがある。簡単にわかるようなもんじゃないんだよ? そうかもしれませんね。でも人間、わからないもの、目に入りすらしないものの必要性はなかなか認められませんよ。


俺は見たことないけど、かつて日本の「中流階級」の家庭には、開きもしない百科事典や世界文学全集が書棚に飾られていたという。

かつて教養がありがたいもの、尊ばれるものとして世間に流通できていたのは、戦前の知性がついに太平洋戦争を止めることができなかった、という反省のもとに、それを必死に大衆の手に届けようとした、戦後民主主義的な価値観と、それに基づく行動によるのではないだろうか。

それがいま異なる様相を呈しているのは、「一億総中流」を幻想としてすら信じられないほど、経済的に豊かでなくなってきたことも大きいのだろうけども、大衆が国の経済を支えて生み出した「余暇」の恩恵に与っておきながら、口では法の下の平等を謳いつつ、実際には大衆のことを蔑視し、または蔑視すらなくて単に省みず、自分が内面化した規範と異なる主張をする政治家が人気を博せば「ポピュリスト」などと呼んで憚らないインテリが招いた事態なのではないか、と感じてしまう。

いまの日本の「知性」は、戦争を止めることができるのだろうか? もし日本が「戦争のできる国」になることを、国民が止めることができるなら、それは現在の知性による主張が広く納得されるからではなく、戦後民主主義の価値観の残滓がなせる業じゃないだろうか。


ほんとうのことはどこにあるんだろう?

少なくとも、Twitterの亜インテリが空調の効いた部屋から送る賢しらなツイートにはない。

父親が水道管をつなげて得た金でローンを返済しているヴェルファイアのなかで純恋歌が良いと言ったこと、母親が子どもを寝かしつけた後にひとりポッドキャストを聞いて宇宙がすごいと思ったこと、そういうことがほんとうじゃないか。

小池百合子の当選をかまびすしく非難する「リベラル」の届かない言葉より、実際に投票所に足を運んで小池百合子の名前を多くの人に書かせた力がほんとうじゃないか。

それらの「ほんとう」が受け入れがたいと思うなら、そう思う人も同じくらい「ほんとう」にならなきゃだめじゃないだろうか。Twitterで愚痴を言うことはほんとうじゃない。俺は両親が投票に行こうと思えるように話をしなきゃいけない。どうして俺が投票に行った方がいいと思うのかちゃんと伝えないといけない。池上彰の解説でどこが微妙なのか、わかるように話せないといけない。維新に投票した人たちは馬鹿だ、吉村はポピュリストだとレッテルを貼って処理するのではなく、なぜ投票したのか声を聞かなきゃいけない。理想を以て他人を批判するなら、「仲間」であってもその理想に反することをしたときには、それをきちんと批判しなければいけない。

「ほんとう」は、「正しい」ではない。どのような思想にも、それなりの正しさはあるだろう。自分が正しいと思っていることを、地位や見栄とは関係なく言うこと、そして実際にそれを実現するための、現実の行為だけが、ほんとうのことなのではないかと思っている。