2022-11-11

高校のクラスメート六人で集まって新宿で飲み、そのまま自分の家で二次会をする運びになった。

僕が通っていた高校はクラス替えがなかったので、我々は十六の頃から知り合いということになる。来年には二十五になるのだから、十年目だね、というような話をした。このようにして十年が過ぎるのであれば、人生は一瞬だろうなと思う。

徹夜で話をしながら、こうしたことができるのもあと何年もないだろう、という気持ちになる。毎日働いて、たまに酒を飲んで憂さ晴らしをして、しばらくしたら結婚して、子供を持って育てて——という人生を、高校の多くの友人が歩むのだろう(自分にはできる気がしない)。それが本当にできるのなら恵まれているのだろうがそれでも、そんなことのために生まれてきて、死んでいくばかりの人生なのか、と思わずにはいられない。

すべて失われるのだとしたら、いま馬鹿みたいな話をして笑い合うことになんの意味があるのだろうか。遠くないうちに失われるのに、どうしてそんなことをするのだろうか。まったくわからない。僕も死んでいくし、彼らもやがて死んでいく。彼らの人格や言葉は失われる。ではなんのためにそれらが存在するのだろうか?

この文章を書いているコンピュータの画面上に、キャレットが明滅している。人の一生もこのようなものだろう。一瞬のうちに生まれては消え、生まれては消えの繰り返し。それが安心ということなのかもしれない。