2022年1月17日 月曜日 記憶と風化

今日で阪神・淡路大震災から27年だという。そのことと、そしてちょうど今日読み返していた保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』を踏まえて思ったことを、まだうまく整理できていないが書く。


僕は27年前に生まれていないので、阪神・淡路大震災についてはなんとなく歴史上のトピックという感じがする。しかしそうでない人もいるだろう。

どうやら歳月というのは、「十年前」「二十五年前」というように均一に数値化されて、遠くなったり風化したりするものではないらしい。そうではなくて、「そのとき生まれていたか」「そのとき何歳だったか」ということの方がずっと大きな問題で、そのときにしっかり記憶されてしまったことは何十年経っても「昨日のことのように」憶えていて、昨日のことでも思い出せないことは思い出せないのと同じように、そのときに記憶されなかったことは忘却のはるか彼方へと消えてゆく——という、それだけなのではないか。

[保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(草思社)]

ここで述べられていることは個人的な実感から考えても正しいと思うが、そうであれば阪神・淡路大震災のことを「昨日のことのように」憶えている人がいるはずである。

曾祖父は神戸の生まれで、彼は阪神・淡路大震災の翌年に亡くなったが、晩年に故郷の街並みが破壊されるのを見るのはどういう気分だっただろう。彼は横浜税関の職員として働いていたので、神戸はせいぜい「子ども時代を過ごした街」だったかもしれないが、そういう場所が破壊されることは、いま住んでいる場所を破壊されるのと同じかそれ以上につらいのではないだろうか。村上春樹も神戸に育っているが、彼だって阪神・淡路大震災を踏まえて『神の子どもたちはみな踊る』を書いたのだから。

大学の友人も神戸出身で、彼はまだ生まれていないが、東京で一人暮らしを始めるにあたり絶対に鉄筋コンクリートの物件に住むよう両親に強く言われたという。彼の父親は神戸市役所の職員である。

曾祖父、村上春樹、友人の両親。彼らは——曾祖父は生前の話であり、また直接・間接の経験という違いはあるにしろ——阪神・淡路大震災をきっと昨日のことのように憶えているだろう。そして忘れないだろう。仮に思い出す頻度が減るにしても、それは忘れることを意味しない。


自分自身も、たとえば東日本大震災のことは忘れられない。僕はあのとき卒業を目前にした小学校六年生で、東京の多摩地区の小学校に通っていて、震災で特別被害に遭ったということはない。自宅の周りに鉄道施設があるためか、計画停電の対象にもならなかった。ただ人生でもっとも強い揺れを、驚くほど長い時間経験したというだけだが、それでもまったく忘れることはできそうにない。

帰宅してテレビをつけると街が巨大な黒いものに呑み込まれていて、そしてしばらくしたら原発の建屋が吹き飛んだ。あるいは学校の渡り廊下にひびが入った。教室では何人かの女の子が泣いていた。街が節電で暗くなった。卒業式と中学の入学式は黙祷が捧げられた。こうしたことを忘れることはない。あと二月もすれば震災から十一年となるが、経過した年月とは関係がなく、忘れない。

特に、机の下にしゃがんでいたときに、隣席の女の子が泣きながら自分の膝に手を置いてきたことは忘れられない。僕は恥ずかしくて、一度手をどけたのだがもう一度置いてきて、そのままにしながら揺れが収まるのを待った。そのときの感情をうまく言い表すことができない。単に頼られているようで嬉しかったとかあるいは緊張したとか、それだけの話でもない。この経験を、東北の各地で被災した人の前で話せば軽薄の誹りを免れないだろうが、自分のなかでは昨日のことのように思い出せる特別な記憶である。


とくに今の話は、自分以外の人にとっておそらく意味のある記憶ではない。ただ、他者にとっての意味のあるなしにかかわらず、人それぞれが持つ個別的な記憶が東日本大震災という出来事を構成している。それを持つからこそ「3.11」という文字列を見て何かを考えられる。「死者二万人」を、自分とほんの少しでも関係することとして引き受けられる。個別的な記憶、「自分の記憶」を持たない人は、それを歴史上のトピックとしてしか捉えられない。

だから出来事が風化するときというのは、それに関して「自分の記憶」を持つ人々がすべて亡くなったときだろう。どんなに以前の話でも、たとえば太平洋戦争であっても、あるいは関東大震災であっても、それについて誰かが自分のこととして憶えている限りは、それはまだ風化していない。

また僕は阪神・淡路大震災を「歴史上のトピックという感じがする」と述べたけれど、大学の友人が引っ越し先の物件を探しながら「鉄筋コンクリートじゃないからあかんわ」と言っていたことは印象的で、今後も忘れないだろうし、それも阪神・淡路大震災にまつわる「自分の記憶」としていいと思う。

それがなければ、友人がそう言うことはおそらくなかったのだし、仮に言ったとしても僕は「丈夫な建物がいいんだな」くらいにしか思わず今頃忘れているだろう。それは友人の両親と友人を介した二重に間接的な経験だが、それが「自分の記憶」となって、自分にとっての阪神・淡路大震災を「歴史上のトピック」からわずかに遠ざけるのだし、それを風化させないことに本当に少しだけ寄与していると思う。

逆に曾祖父は、血縁という身近な関係ながら、彼の阪神・淡路大震災についての個別的な記憶を聞く機会もなかったし、どこかに残されてもいないので、それは失われてしまった。その記憶も阪神・淡路大震災という出来事を構成していたのに。もしかしたら彼は自分の子どもや孫に(つまり僕の祖母や母に)それを話していて、彼女たちの記憶にはそれを聞いたことが「自分の記憶」として忘れ去られずにあるのかもしれないが、彼女たちがそのことをまた誰かに話さなければ、そしてそれを聞いたことが誰かにとって「自分の記憶」として残らない限りは、やはり遠からず失われてしまう。その分だけ歴史上のトピックに近づく。


こういったことを考えれば、出来事が本当に風化するのは、それについて「自分の記憶」を持つ人がすべてこの世になく、さらに彼らの話を聞く人や読む人がいなくなるときだろう。それまでは、彼らの話の内容そのものは、厳密には「自分の記憶」にはなりえなくとも、それを聞いたこと自体、読んだこと自体が「自分の記憶」になりうる。同じ小説を読んでも、それを読んだ記憶はそれぞれ異なるように。それを誰かが持っている限りは、完全には風化しない。

その人たちがいなくなったとき、「平成七年(一九九五)一月一七日午前五時四六分ごろ、阪神地方を襲った大地震、兵庫県南部地震による災害。被害は神戸、淡路島など兵庫県南部を中心に大阪、京都にも及び、死者は六千三百余人。」(『精選版 日本国語大辞典』)は、それ以上のものではなくなる。誰にとっても歴史上のトピックでしかなくなる。

だから出来事を風化させないためには、もしそれについて記憶するところを話そう、書こうとする人がいる限りは、それを聞く必要があるし、それを残す必要がある。風化しないことを単純に良いこととしていいのかどうかは、意見の分かれるところかもしれないが、そのうち人類や文明が滅びてすべての出来事にいかなる意味もなくなるのだから、それらが存続しているあいだだけでも、人類という種を、我々が築いた文明を、それぞれ構成する人間が経験した物事として、可能な限り風化させずにいるべきだと考えている。