2022年3月15日 火曜日

生活リズムが終わっていて、本を読むことと文章を書くことしかできない。

昨日と今日でウエルベックランサローテ島』・『地図と領土』、信田さよ子『カウンセラーは何を見ているか』を読んだ。読書は(基本的には)金のかからない趣味でありがたい。

先週まで活動的に過ごしてきたせいかすべてがどうでもいいという気分になっている。躁鬱というよりはどちらかというと静と動という感じがする(それが躁鬱ということかもしれないが)。


信田さよ子『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)は、原宿でカウンセリングセンターを営む臨床心理士が著した本。精神科の病院やクリニックから独立した「開業カウンセラー」の第一人者として経験したことが記されている。

読みやすい筆致だがそんなに面白くない。著者は(臨床心理士として、起業家として、経営者として)、かなり面白い経験を積んでいるはずなのだがそれらについての記述があっさりしていて物足りない。

また途中、筆者の幼少期の出来事として、知的障害を持つ少し年上の男子とみなで親しくしていたこと、その男子が中学に入り少し疎遠になったときに山で遭遇したこと、彼が叫び声のようなものを上げて、それが怖くて一緒にいた友達の女子と一目散に逃げたことが書かれているのだが、それを性暴力の恐怖によるものと結論づけていた。筆者の恐怖やその理由を否定するわけではないが、実際には知的障害の彼は何もしていないのに、またそのような意図があったかも定かではないのに、と思う。それは筆者も認識しているだろうし、怖いものは怖いのだから仕方ないが、臨床心理士という立場であり、性暴力の加害者・被害者、知的障害の当事者・周囲の人間についての知見もあるだろうに、随分配慮のない書き方ではないかと思った。

赤裸々と言えるかもしれないが、その赤裸々さは求めていない種類のものだった。知的障害を持つ年上の男子が野太い声を上げたら、女子としてそれはきっと怖いだろう。それが性的な恐怖というのもそうだろう。いくら臨床心理士だってその前に人間なんだからそりゃ怖いだろう。当時は心理学に通じてもいないわけだし。でも怖かったです、ではなくて、そこにもっと踏み入ってほしかった。単刀直入な感情の発露(それは何らの専門性もない我々が普段経験している)ではなく、その後の経験や学術的な知見に基づいた分析を読みたかった。その「名付けようもない経験」が今では「深く納得できる体験」となっているという記述があるのだが、その理路を書いてほしかった。

後半部は筆者が狭心症のため入院したときに感じたことが書いてあるのだが、なんというか「さすがカウンセラーである」というような感慨を抱かせるような描写はあまりなく、趣味の悪い人間観察としか思われない描写が続き(おしゃれなパジャマを着た入院患者の職業を娘と推測するシーンなど、電車内の退屈しのぎかと思う)、それなりに周囲を見て文章が書ける人ならばこれくらい書けるのではないかと感じてしまう。暇つぶしに読むのにちょうどいい程度の文章に終始している。

学術的な記述もほとんどなく、「経験からこう思いました」という結論だけが述べられていて、共感なんか要らないとかバサバサと書いていてそれは面白いのだが、それを裏付けるようなエピソードに乏しい(クライアントのことをあけすけに書くわけにはいかないとか様々な事情もあるのだとは思うが)。独りよがりに感じる。良いと思うフレーズは誰か他人から言われた言葉だったりする。『ケアをひらく』シリーズは評判だが、これはちょっと出来が悪いと思う。少女漫画めいた装幀や挿絵も効果をあげているとは言いがたく文章の軽さを助長してしまっている。

エッセイとして読めば悪くはないと思うが、臨床心理士という肩書き、医学書院という出版社から期待するような種類の本ではなかった。でも読みやすいので全部読んでしまったが。面白くないというよりは、物足りない。面白くなりそうな話がそこまで面白くならずに終わる。その割にどうでもいいこと(病院のラウンジで会った素敵な男性の話とか娘が無印でパジャマを買うとか)が書かれているので微妙な気持ちになる。残念。まあこの本のターゲットではなかったのでしょう。


いっぽうでウエルベックは例によって満足がいく。食傷気味と書いたが毛色の変わった二冊だったので楽しめた。『ランサローテ島』は写真と中編小説が一冊になっているつくりで楽しい。後に書かれる『ある島の可能性』と通ずるテーマ。『地図と領土』はウエルベック節(性的描写や差別的な記述)がかなり控えめで、ウエルベックが嫌い・苦手な人にも読みやすいのではないかと思う。ほかの作品と比較して静かで叙情的。