期待しすぎてはいけない

小学校二年生のとき、学校から家に帰るとやっちゃん・・・・・がいなくなっていたことがあった。やっちゃんは当時、母と懇ろな関係にあり、僕は母、母方の祖母、そしてやっちゃんと一緒に住んでいた。

やっちゃんが父親ではないということは僕は知っていた。物心ついたときには既に父親はおらず、祖母と二人で暮らしていて、後から彼がやってきたのだから。やっちゃんが紹介されたのは幼稚園を終える頃だった。それ以前にも母には恋人がいて、たまに僕も会っていたがその人はいなくなって、彼を含めて四人で住むということが伝えられた。唐突な話だが、たまにしか帰ってこなかった母と一緒に住めるのは良いことだったし、やっちゃん自身も子供が好きでわりと付き合いやすい人だったので、特に問題はなかった。祖母はどういう気持ちだったのか判らないが、あの人はあの人で離婚を経験しているし、息子も離婚するし、娘を妊娠させた男もいなくなるし、今更どうということもなかったのかもしれない。やっちゃんは多分、やりづらかったと思う。

それから二年間、一緒に暮らした。大人同士の機微はよく判らないが、僕の目から見ればそれはそれなりに上手くいっていたと思う。ほとんど家族のようだったと思う。やっちゃんは普段やっちゃんと呼ばれていたが、何か物をねだるときなどは彼が物欲しそうな顔をするので、僕がはにかみながらパパと言うと笑顔になり願い事に応えてくれた。そういう関係はよく磨かれた包丁でうどんでも切るように終わった。

「やっちゃんとはもう会えないから」と母は言った。僕は「うん」と言ったと思う。ほかに言うことはなかった。それはもう決まったことで、どうしようもなかった。そもそも始まりからして唐突だったのだから、終わりも唐突なことは自然だった。そして父親的な人間の不在には慣れていた。母親的な人間すらおおむね祖母が代理していた。それから数日して、一度だけ母親がやっちゃんに電話して、そのときに話したのが最後だった。電話したことは覚えているが、何を話したかは覚えていない。たぶん元気でねとか月並みなことを言われてうなずいたりしただけだろう。

そのとき「ショックを受けた」とか「トラウマになっている」ということもないのだが、明確に意識されないだけでおそらくそれはある種のトラウマになっていると感じる。そういう経験を持った子供は、何事にも期待しすぎないように育つ。特に他人が関係するときは。他人は自分の思い通りにはならないし、また自分自身が常には自分の思惑通りに行動できないのと同じように、他人もその人の思惑とは関係なく何かをしてしまうことがある。自分に対する不全感があるというよりは、世の中の方が自分の、あるいは人間の能力を超えている。それは及びもつかないところで動いていて、ときにはどうしようもないこともある。

何事にも期待しない・・・、のではなく、何事にも期待しすぎない・・・・・、というのがポイントで、もし何事にも期待できないのだったら、僕の人生は今あるものよりも遙かに悪くなっていただろう。たとえば他人に期待できなかったら、他人とどのような関係を結べるのだろうか。商取引ですら、契約書に明示されたことを、あるいは暗黙の諒解としていることを、他人が(どのような理由であれ)履行することに期待して行なわれる。我々はレストランの店員が料理に毒を盛っていないこと、おつりをごまかさないことを期待して暮らしている。プライベートの関係には善管注意義務もなければ専属的合意管轄裁判所もない。だから期待しないでは何もできないが、期待しすぎたら、その期待を裏切られたとき、感情的になって他人を責めることになる。期待しすぎてはいけない。